僕のじい。
お調子者でちょっとボケてて、頑固だけど優しくて家族みんなから愛される存在だった。
そんなじいが4月2日に息を引き取った。
享年84歳だった。
私が物心ついた時には、親は離婚しており、母の実家でじいとばあ、母さんと兄弟3人の6人で暮らしていた。
母が看護師で日勤や夜勤と忙しいため、日頃の面倒はばあとじいがよく見てくれていたらしい。
もちろん母からも大量に愛情を貰ったが、じいとばあに大事にされてここまで育ってきたんだと思う。
僕のお父さんはじいだったのだ。
そんなじいは昔は本当に怖かった。
昭和時代を生きた典型的な亭主関白で、気に入らないことがあればよく怒鳴っていた。
ばあから聞いた話だが、その日の夜ごはんにお肉料理が無ければブチギレていたんだと。
私も何回も怒鳴られては正座をさせられたのを覚えている。
その頃のじいのイメージを一文で表すと、
毎日タバコと焼酎を楽しむ短気な人。
になるだろう。
そんなじいだったが、私が目まぐるしく青春時代を過ごしていく中で、気付かぬうちに少しずつ変わっていった。
いつからかタバコを吸わなくなり、怒鳴ることも無くなった。冬の朝には仕事だからと結露を拭いていた。
家事なんて何ひとつやらなかったじいだったからこそ、びっくりしたのを覚えている。
他にも食器洗いや洗濯物畳み、ばあの肩もみもじいの役割だった。
私の反抗期も終え、高校生になった頃にはじいは優しいお調子ものになっていた。
まさに「丸くなった」という言葉が適切だろう。
家の庭に自分の畑を作ったり、趣味の釣り道具をいじったり本当に好き勝手やって過ごしていた。
毎日、夜に焼酎を飲みながら、家族の会話に少し遅れて反応するじい。
「その話はもう終わった」とみんなから笑われていた。
僕はそんなじいが大好きだった。
高校を卒業し、専門学校へ入学。東京への憧れもあり、私は上京を決意した。
上京を伝えた時は、じいとばあが少し寂しそうにしていた。
別れの日は空港まで見送りにきてくれて、じいは僕のポケットにこっそり3万円を入れてくれた。
「いつでも帰ってこいよ」
笑顔で一時のお別れを告げたが、飛行機の中で寂しさのあまり号泣した。
慌ただしい上京生活が過ぎる中、実家に帰省できたのは上京から1年経った頃だった。
久しぶりのじいは少し痩せていたが元気で、
「東京が楽しいんやろ、よかったな」
と笑っていたのを鮮明に覚えている。
社会人2年目も実家には1度しか帰らなかった。
家族に会いたい気持ちもあったが、仕事やプライベートで忙しく、まとまった時間が取れなかった。
社会人3年目のお正月
偶然が重なり連休が取れたため、久しぶりに実家に帰ることにした。
3か月前に入籍したこともあり、改めてじいとばあに直接報告した。
「やるな〜よかったな〜おめでとう」
すごく喜んでくれて、年金生活なのに結婚式の資金を貯めるんだと張り切っていた。
「写真だけ見れたらええけんね、楽しみやな」
そう言ってくれて恥ずかしながらも嬉しかったのを覚えている。
大晦日をゆっくり過ごし、元旦はじいとばあと一緒に初詣に行った。
じいはかなり体力が落ちていたため、所々休みながら一緒に歩いた。
母から聞くと1人で歩いては何回か転んでいるよう。
無理しないようにと繰り返し伝えた。
じいは「わかっとる、大丈夫や」の一点張り。
今年はじいが怪我しないか心配だから、何回か実家に帰ろう。
そう心に決めて東京へと戻った。
あれから3ヶ月経った、3月12日。
妹から一通の連絡が届いた。
ちょっとこの動画見てみて?
そこに移るのは身体が右に傾いたままのじいだった。
自分では治せず困っているようであった。
嫌な予感がした。
明日の朝、病院に連れて行きますとの連絡。
私は何事もないようにと心から願っていた。
次の日のお昼頃に母から連絡がきた。
「脳出血で受診中。詳細わかったら伝えるね」
こういった時に嫌な予感は的中するものなのか。
身体はどれほど動かせるのか?
意識はしっかりしてるのか?
声は出せるのか?
仕事中だったが、気が気で仕方がなかった。
そして本当の悪夢はこれからだった。
3月14日、母から連絡が届く。
「急遽医師に呼ばれ悪性リンパ腫と言われました。本人の希望、そして年齢的にも治療はしない方針です。余命は半年です」
目の前が真っ暗になった。
じいが、結婚式には間に合わないなと泣いていたことを母から聞いた。
涙が止まらなくなった。
なぜ、今なんだ。
なぜ、このタイミングなんだ。
いちばん辛いタイミングで近くにいてやれないことを悔やんだ。
こんな思いすると知っていたなら上京なんてしなかったのに。
妻に結婚式の日程を早めれるかの相談をした。
快く受け入れてくれた妻には感謝してもしきれない。
9月に予定した結婚式を6月に変更しようとプランナーさんと相談していた際に、またしても母からの連絡で地獄に突き落とされる。
3/19 じいと面会しましたが、もう立てなくなってます。右側の認識がありません。本人の意思を汲んで29日に自宅退院で調整してます。
その2日後
3/21 1週間で脳腫瘍がかなり大きくなっていました。余命1ヶ月ほどとのことです。
自分の目を疑った。
年末年始、あれだけ元気だったじいが余命1ヶ月ってことがありえるのか?
何も考えられなくなった。
頭を地面に叩きつけられたかのようにショックだった。
食べる気力が無くなった。
その後、母から退院早めて25日にしますと連絡を受けて、その日に合わせて帰省した。
じいに会ったらなんて言おう。
どんな顔をして接すればいいのだろう。
そう悩んでいるうちに実家につき、涙を堪えながら扉を開けた。
家のリビングには介護用ベッドが置いてあり、じいはそこで横になっていた。
僕が来たのを察知し、顔を真っ赤にしながら泣いていた。
僕はただ涙を我慢しながら、何も声をかけることができず、ただただずっと手を握っていた。
仕事の都合でその日はトンボ帰り。
3月末に2連休を取り、再び実家に帰った時には、じいはものすごく痩せていた。
飲み込みが悪く、食事がほとんど取れていなかったのだ。
水分もトロミをつけて飲ませていたが、1日100mlほどしか摂取できなくなっていた。
発話は少ないが、意思疎通は何とか可能。僕のことも認識できていた。
僕はじいに何を飲みたいか聞いてみた。
するとじいは
「しょうちゅう、のみたい」
と確かに言った。
声が出ても聞き取れないことがほとんどの中、「しょうちゅう」のワードはしっかりと音を成していた。
焼酎は毎晩飲むほど、じいの大好物。
じいらしいなと思い、トロミをつけて飲んでもらった。
泣きながら「しょうちゅう、おいしい」と言っていた。
飲水が進まない中、お酒を飲ますことは水分不足を促進させるため、延命を考えると望ましくない手ではあった。
1日でも長く生きて欲しい気持ちと、じいの好きなものを飲ませてあげたい気持ちがぶつかり、家族みんなで悩んだが、本人の希望を汲み、飲ませることにした。
じいの嬉しそうな顔を見て、それが間違いではなかったと確信した。
次は4月8日に帰る予定だったが、もう「また」は無いのだとなんとなく実感していた。
「また、帰ってくるからね」
泣くのを堪えながら、じいとお別れした。
寂しいよりもじいがいなくなる事が怖くて仕方がなかった。
それから3日後の4月3日、夜の18時頃にじいは静かに息を引き取った。
4日にお通夜、5日にお葬式を行った。
あっという間だったけど酷く疲れた。
泣かないと決めていたけど、じいが火葬場に連れていかれる前の最後の別れで、号泣してしまった。
止められるはずのない感情だった。
もう、じいと会うことが出来ない。
そう思えば、どうしようもなく寂しくて、辛くて、当たり前にある「死」が受け入れられなかった。
どうにかして全て無かったことにしたかった。
実は生きてますっていうオチがあってもいいんじゃないかと思った。
そんな空想も虚しく、じいは私の前から完全に姿を消してしまった。
その日の夜は家族、従姉妹みんなで集まってお酒を飲みながらじいの話をした。
たとえ姿が見えなくても、私や誰かの記憶で生き続ける。
そんなありきたりな言葉を肌で実感しながら、寂しい感情をお酒で紛らわした。
その日の夜は気絶するように眠った。
張り詰めていた緊張が完全に解けた夜だった。
次の日はじいの部屋の整理をした。
タンスの奥からはお酒がたくさん出てきて、本当に酒好きだったねとみんなで笑った。
次に、じいの楽園であった畑も整理した。
立派に育ったキンカンに砂糖をまぶしてみんなで頂いた。
じいが隣で笑っているように感じた。
じいが亡くなってからもう1週間経つ。
私は東京に戻り、仕事も再開。いつもの日常が今は助けになっている。
じいのことを深く考えると、やはり寂しくて涙が止まらなくなる。結婚式も見てほしかったし、いつか孫も抱いて欲しかった。
しかし、もうじいはいない。叶わないことを思い浮かべて悔やんでも、じいは喜ばないだろう。
結局は精一杯生きていくしかない。
じいのおかげで今の自分があるのは確かなのだ。
その感謝を示すためにも私は元気に今日を生きていきたい。
じいへ
どうせじいのことだから、一番近くで僕のことを見てくれているんでしょ?
それなら寂しくなんてないからね。
じいと会えるのは何年後になるかな?
ちょっとばかし長いかもだけど、僕の人生を見ながら楽しんでいってよね。
じいの孫に生まれて幸せだよ。
本当にありがとう。
じい、お疲れ様。
P.S
ブログというより、日記のような。
じいをずっと忘れないように、今のこの感情を大事にするためにも書きなぐりました。
書きながら何回も涙ぐんだけど、書くことでじいへの気持ちも整理がついたような気がします。
僕は本当にじいのことが好きだったんだなーと。
上京して寂しい思いをさせてしまったことが一番の後悔です。もっと帰ればよかったと今でも思います。
あんなに元気だったじいが、たった半月で亡くなったんです。
人はいつ死ぬかわからない。
明日がある保証はどこにもない事を強く実感しました。
僕は、じいの時にした後悔を繰り返さないように、これからはばあに寄り添っていきます。
たぶん1番悲しいのは、ずっと人生を共にしてきたばあだもんね。
これからの人生で何回も悲しくて辛い別れを経験するのだろうと思うけど、
悲しめることはいい出会いの証だとも思う。
当たり前のように家族がそういった存在であることが、私にとって何よりも幸せなのです。
読んでくれた方、本当にありがとう。自分の家族、身近な人との貴重な時間をどうか大切に過ごしてください。
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