【簡単解説】白虎隊についてまとめました。【9つの質問に回答】

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こんにちは、がくです。

今回は白虎隊にまとめてみました。

白虎隊とは何か?日新館はどんな所なのか?生きのこった藩士たちはどうなったのか?

今回の記事でより一層、白虎隊について詳しくなれると思います。


①白虎隊には誰でもなれるのか?

A,誰でもなれるわけではない。会津藩の武士の子どものうち16〜17歳の少年たちのみ入隊可能な部隊です。

◎1867年(慶応3年)鳥羽伏見の戦いが勃発。

新しい世の中を作ろうとする新政府軍vs幕府の世を守り通そうとした旧幕府軍

会津藩は旧幕府軍として参戦して敗北。戊辰戦争への不幸な幕開けとなりました。

鳥羽伏見の戦い後、会津藩は軍制をフランス式に改革し4部隊が誕生。そのうちの一つが「白虎隊」です。

↓歳が近い人たちで行動した方が戦いやすいだろうということで下記編成になってます。

白虎(日新館で学んだ16歳から17歳)青龍(36歳から49歳)
朱雀(18歳から35歳)玄武(50歳以上)

主体戦力は朱雀隊、国境の警護に青龍隊、玄武隊や白虎隊はその予備に廻っていました。

②日新館はどんなところ?

A,学校です。白虎隊の学び舎とも言われてます。生徒数は1000〜1300人程度。入学試験は特になく、会津藩の男子は10歳になると日新館へ入学します。成績によっては退学もありましたが、特に優秀だった生徒は江戸(今の東京)や長崎への留学も可能でした。

この日新館で学んだ16から17歳の少年達で編成されたのが「白虎隊」です。

③日新館ではどんな勉強をしていたの?

A,学問や武術、天文学、日本初の水泳をするプールもありました。水泳では戦いの中で水の中を移動する方法を学ぶ訓練が行われていました。日新館は日本でもトップクラスに難しい勉強をすることで有名でした。

がく
がく

当時から給食も出ていたんですよね。

④日新館では勉強ばかりしてたの?

A,中国の古典を用いた素読など勉強はかなり大変でしたが、勉強だけでなく水泳や、戦い方を学ぶ授業も多くありました。また日新館心得の勉強があり、細かく心得を指示していました。

がく
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有名な什の掟は日新館へ入学する前の子供たちの心得です。入学後は内容が細かくなったものを勉強します。

一部参照

毎朝、早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝のご挨拶をしなさい。そして、年齢に応じて部屋の掃除をし、いつお客様がお出でになってもよいようにしなさい。

日新館について | 會津藩校 日新館―会津藩・白虎隊の学び舎

学校の外では、生徒同士グループを作り、決まった場所に集まっては勉強のことや悩み事を話し合い、お互いに励みあっていました。仲のいい遊び友達でしたが、厳しいルールもあったとか…。

⑤日新館での1日の過ごし方は?

入学するとまずは「素読」を学びます。中国の漢字だけが並ぶ本を読んで覚え理解します。これで合格点を取らないと先には進めません。合格後は武器を使った戦い方、乗馬、刀を使う作法、切腹のやり方を学んでいたといわれています。

⑥日新館のような学校って他にもあった?

A,全国に約270校あったといわれています。

有名どころをあげると

会津(福島)の日新館米沢(山形)の興譲館秋田の明徳館水戸(茨城)の弘道館
熊本の時習館萩(山口)の明倫館鹿児島の造士館福岡の修猷館

武芸も地域によりいろいろで、教育内容も違っていたといわれています。藩校の名前が現在もそのまま使われている高校も各地に残っていますので、気になる方は調べてみてください。

がく
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会津若松市にも昔は日新館高等学校があったんだよね。1963年に開校したけど、生徒が集まらず赤字経営となって1968年には廃校になっちゃった。

⑦白虎隊って実際は何人いたの?

A,確かな人数は不明ですが、340人くらいだったといわれています。身分によってグループにも分かれていました。

身分とは

昔は家系により身分が定められており、「」は一番上と考えられていました。侍の中でもさらに細かく分類され、高い方から順に「士中」→「寄合」→「足軽」と分けられていました。

白虎隊の中でも自刃した19人は一番上の「士中組」の中の二番隊メンバーでした。

⑧白虎隊の役割は?なぜ戦うことになったのか?

A,まだ若い白虎隊は他の隊のお手伝いのような役割を与えられることが多くありました。

戦いの部隊は「朱雀隊」が務め、新しい武器を持ちながら敵が攻めてくる可能性の高いルートで待機していました。しかし敵が会津へ近づいてきたことにより、会津へ入るための道を手分けして守ることになります。人手不足が原因で、二軍だった彼ら(白虎隊)も出陣することになりました。

⑨生きのこった隊士たちのその後は?

白虎隊士だけでなく、会津の人はみな国に逆らった側として政治では活躍する場所を与えてもらえませんでした。また、これまで住んでいた会津の土地から出ていかなければならなくなり、斗南(青森)へ引っ越しさせられ、辛い生活を送ることとなります。

しかし高い教養を身に付けている人が多くいたことから、個人で活躍する人が増えてきます。

・東京大学総長:山川健次郎

山川健次郎の写真、名言、年表、子孫を徹底紹介 | 幕末ガイド

・陸軍大将:柴五郎

柴五郎|近代日本人の肖像 | 国立国会図書館

・通信技師、陸軍大尉:飯沼貞吉(白虎隊唯一の生き残り)

斗南藩の歴史(8)白虎隊・飯沼貞吉 - シニアの情報誌「しるばにあっぷる」は、北東北におけるシニア向けの身近な情報誌を無料で提供

まとめ

今回は「白虎隊」について簡単解説してみました。今回の話でより興味をもっていただけたなら、ぜひ福島にある鶴ヶ城や飯盛山にも行ってみてください。日本の歴史を知っていくのは楽しいものです。「白虎隊」は世間でも認知度が高い、悲しい歴史です。今回の記事が勉強になったのなら幸いです。

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